メッセージダイジェスト

7月 5日 ガラテヤの信徒への手紙 5章2節〜11節

「十字架のつまずき」


 皆さんは普段、「自由」について考えることがあるでしょうか。私たちは自由である時ほど、その大切さに気づきにくいものです。健康である時に健康を意識しないのと同じです。しかし、病気になったり、行動を制限されたり、思ったことを言えない状況に置かれたりすると、自由がどれほど尊いものかを実感します。コロナ禍で外に出ることができなかった経験も、そうした不自由を思い起こさせます。また、世界には今も、国や権力に対して意見を言うことが許されない地域があります。そのことを思う時、自由は決して当たり前ではないことを覚えます。

 一方で、現代では「自由」と「秩序」との関係も問われています。これまで当然と思われてきたことに対して、「それは違う」と声が上がります。その声は、その人が長い間抱えてきた苦しみや困難から出てくるものでもあります。しかし、それを聞く側は戸惑うことがあります。自分たちが「当たり前だ」と思ってきたことが問い直されるからです。自由は大切なものですが、人間が作る制度や考え方は完全ではありません。だからこそ私たちは、人がよりよく生きるための社会を目指していく必要があります。

 本日の聖書の箇所で扱われている手紙は、パウロという人物がガラテヤの人々に向けて書いたものです。パウロは、イエスの十字架によって、人は神に責められる存在ではなく、神の愛に受け入れられているのだと伝えました。人は自分の正しさや行いによって神に認められるのではなく、神の愛を信じ、受け入れることでよいのだ、という知らせを語ったのです。

 しかし、パウロが去った後、別の教師たちがガラテヤの人々のもとに来ました。彼らは、イエスを信じるだけでは足りず、古くからの決まりを守らなければならない、と教えました。その中には、ユダヤ人としてのしるしを受けることも含まれていました。ガラテヤの人々は、その言葉に心を揺さぶられました。神に裁かれるのではないか、救われるためには何かをしなければならないのではないか、という不安があったのでしょう。

 パウロは、そのことに強い憤りを覚えました。なぜなら、それではイエスの十字架によって示された神の愛が見えなくなってしまうからです。パウロが伝えたかったのは、人は完全な行いによって神に受け入れられるのではない、ということでした。どれほど立派に生きようとしても、人は完全ではありません。もし決まりをすべて守ることでしか認められないなら、誰も安心して生きることはできないでしょう。だからこそ神は、イエスの十字架を通して、人を恐れから解き放ち、愛のうちに生きる道を示してくださったのだと、パウロは訴えたのです。

 ここで語られる自由は、何をしてもよいという意味ではありません。自分勝手に生きることではなく、神に愛され、赦されているという安心の中で、その喜びを隣人と分かち合って生きることです。人の評価や、失敗への恐れ、決まりを守れない自分への不安に縛られるのではなく、愛されている者として生きること。それがパウロの語る自由でした。

 しかし、自由はいつも抵抗を受けます。新しい自由の言葉は、これまでの考え方や秩序に安心してきた人々にとって、受け入れにくいものでもあります。それでもパウロは、人を支配することも、人に支配されることも、神の願いではないと語ります。私たちは恐れや不安に縛られて生きるためにあるのではなく、神の愛のうちに自由に生きる者として招かれています。一人一人が大切にされる社会を願いながら、私たちもまた、本当の自由を受け止め、今ここから歩んでいきたいのです。