メッセージダイジェスト

7月12日 
テモテへの手紙1の手紙 3章14節〜16節

「信心の秘められた神秘」

 私たちは「こうあるべき」「こうあらねばならない」という思いに囚われることがあります。それは自分の経験の中で育まれた善悪の物差しであり、時に自分を支えますが、同時に人を裁き、自分自身を苦しめるものにもなります。家族についても同じです。母親が家事を担う姿を見て育てば、それが当然のように思われることがあります。しかし時代が変わっても、自分の中に刻まれた「あるべき姿」から自由になることは簡単ではありません。

 家族を巡る課題は、近年になって突然増えたのではなく、これまで隠され、語られなかった苦しみが、勇気をもって言葉にされるようになったのだと思います。ヤングケアラー、介護、ひきこもり、貧困、虐待、居場所を失った子どもたちなど、「家族のこと」として抱え込まれてきた痛みがあります。そこに単純に「家族に問題がある」と言うことはできません。敗戦直後の孤児のように、親の愛情を受けられない背景には社会や国家の問題もありました。今もまた、家庭の苦しみは社会のあり方と深く結びついています。

 また、人が人を愛し、共に生きたいと願うことは、法的な関係だけで測れるものではありません。しかし「家族」と認められなければ、病の時にそばにいることさえ難しい現実があります。私たちは「家族とは何か」を、改めて問われています。

 今日の御言葉であるテモテへの手紙一は、エフェソに留まるテモテに対して、教会を守ってほしいという願いを込めた手紙です。当時の教会には、イエスを信じるとは何かという基準がまだ定まらず、福音の理解を巡る混乱がありました。パウロが伝えた福音とは、私たちが正しい行いによって神に受け入れられるのではなく、神の愛と憐れみ、イエスの十字架の贖いによって、すでに受け入れられているということです。この言葉によって、多くの人が囚われから解放されたことでしょう。

 しかし一方で、「赦されたのだから何をしてもよい」という受け止め方も生まれました。そこで手紙の作者は、神に赦され救われた者として、どのように生きるのかを示そうとします。教会に集う者が、周囲から「あの人たちのようになりたい」と思われるように生きること。それは福音を伝えるための願いでもありました。

 けれども、2026年に生きる私たちは、その「正しい生き方」をそのまま受け入れるだけでよいのでしょうか。この手紙には、家族のあり方、女性と男性の生き方、監督にふさわしい姿など、倫理的な「あるべき姿」が語られています。しかし教会の土台は、牧師でも使徒でも、偉大な宣教者でもありません。教会の礎はイエスです。イエスこそが私たちの下にあり、私たちを支え、理解してくださる方です。この言葉に立つことが教会です。

 もし教会が、正しく清く、男性らしく、女性らしく、牧師らしくという「あるべき姿」を求める場になるなら、そこにいることが苦しくなる人がいます。「神さまの望むように生きられない」と感じ、受け入れられないという孤立を深める人がいます。もちろん、何をしてもよいという考えにも私たちは抵抗を覚えます。自由と秩序を巡る対立は、今も教会を分けるほど大きな課題です。

 だからこそ私たちは、何が神の御心であり、何が違うのかを、自分たちの物差しだけで決めることはできません。正しいと判断されるのは私たちではなく、ただ神です。イエスは対立を求める方ではなく、神の愛に立って共に生きるよう、私たちを導かれる方です。

 私たちは皆、欠けがあり、傷つきやすく、また人を傷つける者です。痛みや苦しみを負い、怒りや憎しみに囚われることもあります。いつも喜んでいることも、隣人を愛することも簡単ではありません。それでもイエスは、このような私たちを受け入れ、赦し、愛してくださいます。教会は、見た目が整い、誰もが笑顔で幸せに包まれている場所ではありません。むしろ、心から愛され、赦され、受け入れられていることを必要とする者たちが集められる場です。

 私たちは「神の家族」である。その意味は、あるべき家族の姿を実現することではありません。「誰もが神に愛され、あなたもここにいていいのだ」と信じることです。たとえ対立し、受け入れがたい人であっても、私がここにいることを赦されているように、あなたもここにいることを赦されていると信じることです。神の家族とは、理想の家族像ではありません。ただ、キリストを告白する教会に、あなたも私も招かれている。そのことを礎とする家族なのです。