コリントの信徒への手紙二 9章6節〜15節
「分かち合う喜び」
献金は恐れや強制ではなく、すでに受けている神の恵みへの感謝の表れです。支える恵みも支えられる恵みも等しく神からのものであり、分かち合う中にこそ真の喜びがあります。
献金への不信
社会の中で「献金」という言葉には、今、重い響きがあります。家庭を崩壊させてまで献金を強いる組織の存在が社会問題となり、さらに元首相銃撃事件をめぐる報道は、その不信をいっそう深めました。人の弱さや不安につけ込み、恐怖を煽って献金や高額の商品を買わせなど。
善意による献げもの
けれども、献金や募金そのものが悪いわけではありません。クラウドファンディングやユニセフの募金のように、誰かの理念や夢に共感し、自ら進んで献げたいと願う動きも、今の時代には確かにあります。強いられてではなく、心から共感したときにこそ、人は動かされるのです。
感謝としての献金
では、本来の「献金」とはどのような姿でしょうか。それは見返りを求める取引ではなく、「すでに恵みに預かっている」ことへの感謝の表れです。この原点に立ち返って、パウロがコリントの教会に語った言葉に耳を傾けたいと思います。
コリントとエルサレム、二つの教会の対照
パウロが献金を呼びかけた背景には、二つの教会の対照的な姿がありました。エルサレム教会は、迫害の中にあり、経済的にも厳しい状況に置かれていました。十字架にかけられた死刑囚イエスを神と崇める彼らは、当時のユダヤ社会からは反社会的な集まりとさえ見られかねない存在だったのです。一方、ローマ帝国の都市にあったコリントの教会は、多様な人々を受け入れ、比較的豊かでした。パウロはこの豊かなコリントの教会に、困窮するエルサレム教会を支えるよう呼びかけます。その根底には、律法にとらわれない福音理解をエルサレム教会が受け入れてくれたことへの、パウロ自身の深い感謝がありました。
種まきの譬えと、その裏にあるもの
パウロは献金を「種まき」に譬えて語ります。蒔いた種にしたがって刈り入れも豊かになるように、喜んで献げる者を神は愛してくださる、と。ただし、パウロが他の教会の動向を引き合いに出しながら献金を促した姿勢には、比較によって競わせるような一面も見え隠れします。それは、必ずしも手放しに健全とは言えないかもしれません。
支える恵み、支えられる恵み
それでも、パウロが本当に願っていたことは明確です。献金によって生活が破綻することを神は望まれません。支える側と支えられる側という上下関係を作ることも、パウロの願いではありませんでした。献げる恵みも、受ける恵みも、等しく神からの恵みなのです。規模の大きな教会も小さな教会も、遠く離れた国の教会も、互いに祈り、祈られる関係の中にあります。
結び――分かち合う喜び
私たちの人生も、私たちが築くどんな宝も、すべて神の恵みによって今あるものです。だからこそ、義務や恐れによってではなく、感謝と賛美のうちに、信仰の友を覚え、隣人と具体的に分かち合いたいのです。恵みや収穫を得ることだけが人生の喜びではありません。受けるだけでなく与えることの中にこそ、私たちは本当の喜びを見いだす者とされています。神は今も、私たちと共に喜び、共に重荷を担ってくださっています。