エフェソの信徒への手紙 4章25〜32節
「赦されて生きること」
教会は、完全な人だけが集まる場所ではなく、古い自分を抱えながらも神に愛され、赦されていることを覚える場所です。赦された者として隣人を赦し、愛された者として隣人を愛する。そこから、私たちの新しい生き方は始まります。
教会とは、どのような場所なのでしょうか。完全な人だけが集まる場所ではなく、古い自分を抱えながらも、神に愛され、赦されていることを覚える場所なのだと思います。今回の説教では、エフェソの信徒への手紙を通して、「赦されて生きること」と、そこから始まる新しい生き方について考えます。
教会とは何かを問う季節
先月、そして今月の礼拝説教は、「一つの体としての教会」というテーマが続いています。これは意図して選んだというより、与えられた聖書箇所を通して示されていることです。御言葉を通して「教会とは何だろう」と心を向ける時なのだと思います。
神に招かれて集う場所
教会は、神に招かれる場です。私たちが共に集い、御言葉を聞き、賛美を捧げるきっかけは一人一人違います。義務として集められたのではありません。神の愛が注がれていると信じ、神ご自身が一人一人と共にいてくださる。その呼びかけを聞くために、私たちは教会へと招かれています。
祈り、賛美し、御言葉に聞く
高崎教会は、聖書を中心に教会を形作ろうとするプロテスタント教会の伝統にあります。祈り、賛美し、御言葉に聞く。時代と共に祈りの内容や賛美の形は変わっても、御言葉に聞くことが礼拝の中心であることは変わりません。
教会がこの世に示してきた神の愛
教会の使命とは、福音を多くの人に伝えることです。それは言葉だけではなく、神の愛をこの世に示すことでもあります。行き場のない子どもたちを受け入れ、社会の中で生きることに困難を抱える人々を受け入れてきた教会の歩みも、その実践の一つでした。「隣人を愛する」ことが、福音を示すことでもあったのです。
エフェソという町に生きた人々
エフェソという町は、文化や芸術が栄え、富や繁栄を享受する人々もいた町でした。しかし、その社会の中には、今の視点から見ても多くの課題がありました。教会に集う人々もまた、その社会の中を生きていた人々です。だからこそパウロは、彼らに向かって「古い生き方」を捨て、「新しく生きよ」と語りました。
古い生き方を抱えた教会
パウロが示した新しい生き方とは、罪を犯さないこと、盗まないこと、悪い言葉を使わないこと、怒りや悪意を捨てることでした。そして何より、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによって赦してくださったように、赦し合いなさい」と語ります。
なぜ人々は教会に惹かれたのか
なぜ人々は教会に集まったのでしょうか。文化や娯楽に満ちた町にあって、「死人の復活」を語る小さな群れに、なぜ惹かれたのでしょう。それは理屈ではなく、「受け入れてもらえた」「愛されている」「赦されている」と感じたからではないでしょうか。
理想ではなく、現実の教会の中で
けれども教会は、理想の場所ではありません。喜怒哀楽があり、人間関係の不和があり、様々な現実があります。私たちも簡単に生き方を変えることはできません。古い自分に囚われ、隣人を愛することも、赦すことも難しいと感じることがあります。
新しい生き方は赦しから始まる
それでも、私たちは「愛され」「赦された者」として神に招かれています。新しい命を生きるよう誘われています。生き方を変えたなら新しい命を生きられる、のではありません。今この時、神に委ね、愛され赦されていることを受け入れる。そこから、私たちの新しい生き方は始まるのです。
赦されて、新しく生きる
赦された者として、隣人を赦す。愛された者として、隣人を愛する。完全にできるからではありません。なお古い自分を抱えながらも、神が共にいてくださるからです。だから私たちは、赦されて、新しく生きることへと招かれているのです。