メッセージダイジェスト

エフェソの信徒への手紙 5章21節〜6章4節

「1つの体、多様な『理解』」

「家族とは何か」「教会とは何か」という問いを、映画『万引き家族』、聖書の言葉、そして金継ぎのたとえを通して考えます。家族は血のつながりや法的な関係だけで成り立つものではありません。安心できる居場所を得る人もいれば、家族という言葉に痛みや緊張を覚える人もいます。聖書は家族や教会の「あるべき姿」を語りますが、それは誰かに理想を押しつけるためではありません。むしろ、欠けや破れを抱えた私たちを、主が癒やし、回復し、新しい形へと導いてくださる希望を語っています。

家族という言葉が持つ二つの顔

是枝裕和監督の映画『万引き家族』は、血のつながりや法律上の関係では説明しきれない家族の姿を描いています。そこにある生活は決して理想的ではなく、貧しさや犯罪も含まれています。それでも、その場所にしか居場所を見つけられなかった少女がいました。この映画は、私たちに「家族とは何か」と問いかけます。家族という言葉に安心を覚える人がいる一方で、愛されなかった記憶や孤独を思い出す人もいます。

現実の家族は一つではない

私たちはそれぞれ違う生い立ちを持ち、違う家族の記憶を抱えて生きています。外からは幸せそうに見える家族にも、悲しみや苦しみが隠れていることがあります。病院で出会う人々の中にも、家族との関係に悩み、孤独を抱える方がいました。法律上の家族がいるからといって、心が支えられているとは限りません。家族の形も、家族への思いも、人によって大きく違うのです。

聖書が語る「互いに仕える」姿

エフェソの信徒への手紙は、夫と妻、親と子の関係について語ります。一見すると、家族の中で誰かが中心になり、他の人が従うように読めるかもしれません。しかし大切なのは、「互いに仕え合う」ということです。片方だけが我慢するのではなく、イエスに結ばれた者として互いを大切にし、愛し合う姿が示されています。聖書の言葉は、重荷を背負わせる命令ではなく、福音を生きる道を指し示すものです。

欠けのない姿だけが栄光ではない

聖書は「栄光に輝く教会」と語ります。しかし、それは傷も失敗もない完全な姿という意味なのでしょうか。もしそうなら、私たちの現実の家族も教会も、そこから遠く離れてしまいます。ここで金継ぎのたとえが助けになります。割れた陶器は、ただ元に戻されるのではありません。金によって継がれ、新しい美しさを持つ器になります。私たちの人生の破れも、主の癒やしによって新しい意味を与えられるのです。