メッセージダイジェスト

ヘブライ人への手紙 12章3〜13節

「試練が経験に変わる時」

 先週の教会学校キャンプでのひとつの祈りの体験から、「試練」と「忍耐」について考えます。ヘブライ人への手紙は、迫害の中にある信仰者に「主の鍛錬」として忍耐するよう語りかけます。しかし、暴力や迫害までも安易に「試練」と呼び、耐えることを求めてよいのでしょうかイエスの生き様に心を向けながら、その問いを共に考えます。

涙が教えてくれたこと

先週、教会学校のキャンプを行いました。テーマは「平和」。最後のミッションは「神さまにお祈りすること」でした。あるお友だちは、しばらく黙った後、涙を流しながら両親のもとへ歩いていきました。その涙の意味を言葉で説明することは、きっと野暮なことでしょう。でも想いは確かに心の中にあります。涙を流すほどの「試練」も、やがて豊かな「経験」へと変わっていく。神の前に愛され、赦され、受け入れられながら。

「主の鍛錬」という言葉

ヘブライ人への手紙の作者は、迫害の中にある信仰者たちに語りかけます。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」と。作者は、ユダヤ教の伝統に生きてきた人々が、十字架による贖いをすぐには受け入れられずにいたことを知りながら、イエスこそ「大祭司」であると訴えます。そして「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であると記しました。

試練と暴力を混同しない

しかし、ここで立ち止まりたい問いがあります。迫害という暴力そのものを「試練」と呼び、耐えることを神が望んでおられるのでしょうか。遠藤周作の小説『沈黙』に描かれるキチジローの姿は、まさにこの問いを私たちに投げかけています。私たちの人生には確かに「試練」と呼べる苦しみがあります。病、挫折、裏切り。けれども、それが「暴力」であるならば、私たちはそれを安易に「試練」や「忍耐すべきこと」と呼ぶべきではありません。暴力の前で人は無力であり、尊厳を奪われます。私たち自身もまた、知らぬ間に誰かを言葉で傷つけていないか、問い直す必要があります。

イエスと共に歩む

「ここにイエスがおられたなら、どうされるだろうか」。そう祈りつつ聞く者でありたいと願います。イエスは復讐を望まれず、怒りや憎しみを祈りに託すよう私たちを招かれます。今、暴力や迫害のただ中にある方々の上に、神の守りと癒しがあり、解放の時が訪れますように。すべての人が安心と希望を携えて歩めますように、心からお祈りいたします。