コリントの信徒への手紙一 12章14節〜26節
「一つの体、多様な個性」
違いがあるからこそ、一つの体として生きることができる――パウロは、教会を「体」にたとえながら、誰一人として不必要な存在はいないと語ります。強さや役立ちだけで人を測るのではなく、弱さを抱えた人も安心してそこにいられること。互いの違いを認め合い、誰かの痛みを自分たちの痛みとして受けとめ、誰かの喜びを共に喜ぶこと。そのような共同体の姿の中に、聖書が語る平和への道を見つめます。
平和とは、弱い者も安心できる場
7月最後の日曜日、高崎教会では教会学校のキャンプが始まります。今年のテーマは「平和」です。イザヤ書には、おおかみと羊、子牛と若獅子、乳飲み子と毒蛇が共にいる不思議な光景が描かれています。それは、強い者と弱い者が共にいて、弱い者も安心して過ごせる世界です。誰も一人で生きることはできません。私たちはいのちを守るために、他のいのちを必要としています。神様が支配される世界とは、すべてのものが神様によって養われる世界なのです。
一つになるとは、同じになることではない
今日の聖書で、パウロはコリントの教会に向けて語ります。そこには分断がありました。パウロは「一つとなるように」と願いますが、それは皆が同じになることではありません。駅伝で、それぞれの持ち場にある人が一つの目標のために力を合わせるように、教会もまた、一人一人が違いを持ちながら一つの体を形づくります。パウロは私たちを体にたとえ、「神はご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」と語ります。
神の目に不必要な存在はない
体には、目、手、足、耳など、さまざまな器官があります。それぞれに働きがあり、どれか一つだけで体が成り立つわけではありません。コリントの教会には、「誰が優秀か」「誰が役に立つか」という考えがあったのかもしれません。しかし教会は、役に立つかどうかで人の存在を測る場所ではありません。パウロは、見劣りすると思われる部分を神がいっそう引き立ててくださると語ります。神の目に、不必要な存在はないのです。
共に喜び、共に苦しむ教会
パウロが訴えたかったのは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ということです。教会は、新しい命の誕生や子どもたちの成長を共に喜ぶ場です。同時に、病の中にある方、痛みや悲しみを抱える方、大切な家族を神様のもとへ送られた方の思いに心を寄せる場でもあります。今ここにいる私たちだけでなく、天にある友もまた、神様の前で一つの体に連なっています。
平和へと向かう教会
一つの体である教会は、互いを大切に思い、相手が大切にしていることを理解しようとする場です。そこに、今日のキャンプのテーマである「平和」への道があります。私たちは弱く、神の前に完全な者ではありません。しかし神は、私たちを見捨てず、愛し、赦し、永遠へと導いてくださいます。神が私たち一人一人を慈しみ、大切にしてくださっている。その思いに満たされながら、共に喜び、共に苦しみ、共に生きる教会でありたいと願います。